短歌から逃げている

昔、私よりずっと文章のうまい友人と話していたとき、「短歌や俳句はヤバい」という話になった。

「あれは簡単に手を出せるもんじゃないぞ。盆栽なんかと同じだ」

私は深く頷いた。

文章も書くし園芸もするが、短歌も俳句も盆栽も、それらのジャンルの中にありながらおいそれと踏み込んではいけない異界だった。
友人はいろいろな文章を書く人だったが、短歌や俳句は書けないと言った。
あの言葉の少なさで世界を(ヘタしたら宇宙を)構築するという闘い方に、我々は完全にビビっていた。

でもそれはものすごく魅力的だと感じながらの怖さであって、まだ見ぬ世界の強豪レスラーに対するような熱を持った怖さだったから、やっぱり「ヤバい」という言葉がピッタリだったと思う。


何年か前に文学フリマに出店したとき、大学の短歌サークルの子たちが私の本を買ってくれて、私も彼女たちの本を買った。
凝ったZINEのようなてらいのない、白い紙に黒い文字が並ぶ、正しくすっきりとした本だった。
私がずっとビビり倒している世界で、身体ひとつで闘っている若い子たちがまぶしかった。

過去、短大の授業で短歌を書いたことがある。
やったことのない乗馬のことをさもやったかのように書いたりとか、19の頃に奥さんのいる人に強烈に好かれて困惑したこととかを艶っぽく膨らませて書いた。
それは悪くない歌になった。成績も悪くなかった。

けれど、私が書いたのは歌というより思わせぶりな短い日記だった。
覗き込んでも窓枠の範囲だけしか見えず、その向こうの世界は見えないものだった。

あのとき感じた自分の圧倒的な凡庸さが怖かった。


今朝、自分をアウトプットする場というかハードというか器を持たないことに、また苦しんでいた。
いったい何年やってるんだという感じだけれど、ずっとそうだ。
楽器もできないし、歌も歌えないし、絵も描けない。かろうじてこうしてブログを書いているけれど、それは形があるようでない。
詩を書くけれど、それも出すところを見つけられずクローゼットにしまい込んでいる。
根気がなくてコミュニケーションが下手で表現向きの人間ではないのに、どんな体質なのか知らないが、思いだけはどんどんどんどん溢れて溜まっていき、溺れそうになる。
「どうすりゃいいんだ……」と肩で息をしながら電車から外を眺めていて、冒頭の友人の話を思い出した。


いつか短歌や俳句をやってみたい。
けれど、まだその時ではないような気がずっとしている。
一生そうやって逃げ続けるかもしれないし、明日から始めるかもしれない。

2018年04月17日(火) 12時47分

その日の天使のこと

「その日の天使」のことは、たぶんすでに何度か書いているけれど、何度でも書きたい。

「その日の天使」は膨大な数の中島らものエッセイの中でも、いちばん有名なものかもしれない。

中島らもはドアーズのジム・モリソンの書いた歌詞“The day’s divinity, the day’s angel” を「その日の神性、その日の天使」と受け止めて、こう書いた。

一人の人間の一日には、必ず一人、
「その日の天使」がついている。

その天使は、日によって様々な容姿をもって現れる。
少女であったり、子供であったり、
酔っ払いであったり、警察官であったり、
生まれて直ぐに死んでしまった、子犬であったり。

心・技・体ともに絶好調の時は、これらの天使は、人には見えないようだ。
逆に、絶望的な気分に おちている時には、
この天使が一日に一人だけ さしつかわされていることに、よく気づく。

─中島らも 「その日の天使」



初めて読んだ高校生の頃からこのエッセイが好きで、苦しいときはよく「その日の天使」のことを思い出す。

コールタールの海のようにドロドロと黒い最悪な一日の中で起きる、白く輝くような「マシなこと」。
頑張っても頑張ってもだめで、なにもかも嫌になって、死んでしまいたいような気持ちの時に「フッ」と天使に会うと、最悪なその日すべてが許せる気がする。

天使はありふれているのに尊くて、「もうだめだ」と思っていた自分をたやすく救ってくれる。
思わず笑ってしまうぐらいに。




私の最近の天使のことを書いておく。

「あ、間違えちゃった。いつもはうちのやつがレジで、私はパンを焼いてるばっかりだからすぐ間違えちゃうんだよ。しかも安くしちゃうの。あはは」

忙しくて昼ごはんを食べ損ね、夕方になってささくれだった気持ちのまま初めて入ったパン屋のおじいさんとの立ち話。
それと、買ったパンを詰めてくれた真っ赤な紙袋。


2018年03月26日(月) 19時31分

あとは全部が思い出作り

1月後半からどうやってここまで来たのか、あまり記憶がない。
書いたブログや撮った写真を見て「ほぉ」となっている。けど、まるで実感がない。
もう3月も後半だ。ついこの間、正月だったのに。
こうやって歳をとるんだろうか。それは、そんなに嫌じゃないけど。


なにかに絶望したり、その絶望の中で救われるような希望に出会って感謝したり、そんなことを繰り返している。
絶望はだいたい自分の力不足で、希望は人だ。
「自分の機嫌ぐらい自分で取れ」なんて言葉があるけれど、もうわかっている。私をいちばん喜ばせてくれるのは私自身ではない。
ひとりでちょっといい休日を過ごしても、友人と変なことを言ってバカ笑いする時間の濃密さには敵わない。
ひとりきりで好き勝手に過ごす時間はなくてはならないものだけれど、私はせいぜい人様のお世話になって楽しく暮らしていこうと思う。


インターネットで「それは、あなたにしかできない仕事ですか?」という問いかけを見かけた。
それもだいぶ前にわかっている。自分じゃなきゃできない仕事なんてない。
タレントとか芸術家とか伝統工芸の技術者とか、そういう仕事ならともかく、私にできることで私じゃなきゃいけない仕事はない。
べつにそれを恥じてもいない。ほとんどの人がそうだ。

だからさっきの仰々しい問いかけは私にはなんにも刺さらなかったけど、「じゃあ、私にしかできないことってなんだ?」と思った時に、親孝行ぐらいしかない気がした。
(これは『人としてそうあるべき』という話ではなくて、私の場合。親との関係に悩んでいる人や、親がいない人には当てはまらない。したくないことはしなくていいし、頑張ってもできないことはできなくていい)

親孝行といってもやり慣れていないものだから、なるべく顔を見せるようにしたり、ちょっとおいしい手土産を持っていったり、そんな程度だ。
これから先、親も私も大きな病気をせず健康に生きていくとしたら、どうしたって親が先に死ぬわけで、そうなると一日も無駄にはできない気がしてきている。
いや、どっちが先という話ではないが。
私が数秒後にポックリ死ぬ可能性だってあるのだから。


ひとりひとりが「私にしかできないこと」をした方がいいのだと思う。
深い意味はない。なんとなく。
ただ、その方がいい思い出ができそうだから。

人間って、気付いたら生まれていて、そのうち勝手に死んでしまう。
はじめとおわりは自分にはどうにもならないことが決まっているから、あとは全部が思い出作りだ。


2018年03月19日(月) 21時07分

愛とバタークリーム

明け方、暑くて目が覚めることが増えた。
「毛布はかけずにベッドに敷いて、羽毛布団に薄掛けの布団をもう一枚かけると最強だ!」と気づいて、今年はふかふかの布団に埋もれてぬくぬく眠っていたのだけれど、さすがにここ数日で暑くなってしまった。

子どもの頃から寝相が極端にいいので、まっすぐになって眠る。
セミダブルの広いベッドで、分厚い掛け布団の中央にまっすぐになって寝ている私は、はんぺんに刺した串みたいだ。


春が近くなると、気持ちがせわしなくなる。

花の開くあたたかさに浮かれるけれど、一方で冬がいなくなることが悲しい。
結局、春夏秋冬どれも好きなんだと思う。

人も物も、季節も日々も、好きすぎて嫌いだ。
誰も私ほど愛してはくれないから。

なんてね。

にしても、やっぱり私の愛情は重すぎる。
上等な生クリームみたいに、ふんわりなめらかで溶けて消えてしまうようだったらいいのに。
バタークリームみたいだから、ぜんぜん無理。


バタークリームといえば、まだ羽田に住んでいた小学1年生か2年生のとき、友達を招いての私のお誕生日会に、メインで登場したケーキがバタークリームだった。

私はひどくがっかりして「えーーーっ! これきらーーーい!」と言ってしまった。

あれはたぶん、母が買ってきた。
ケーキよりおせんべいが好きな人だから、買うときピンとこなかったのかもしれない。
「あらやだ、ほんとだ。バタークリームね。ごめんね」なんて言ってたような気がする。

バタークリームが嫌いというよりは、生クリームが大好きだったからがっかりしたんだけれど、子どもというのは容赦がない。
買ってきてもらったのに盛大に文句を言ってしまった。
でも覚えているということは、そのときすでに「お母さんに悪いことをした」と思っていたのかもしれない。


バタークリームのケーキは生クリームと違って細工がこまかくて、うす黄色のクリームにピンクの花と緑の葉っぱがついていて、かわいいのに。
悪いことしたな。
バタークリームもおいしいよ。

自分のこと肯定したいわけじゃないけど。 ないけど。

2018年03月06日(火) 21時39分

また一歩きれいに近づいた

半年ぶりぐらいに脱毛サロンに行った。

サロンの予約はなかなか取れない。
ざっと見たところお客さんは20~40代の女性が多いので、仕事の後の平日夜か、仕事が休みの土日に予約が集中するのかもしれない。
それでいつも数ヶ月先の予約を取ることになるのだけれど、そんな先の予定なんてわかるはずがない。生きてるか死んでるかもあやしい。
だから博打のように「エイッ」と当てずっぽうに予約をして、忘れないようにiPhoneにアラートをセットしておく。

約2年ほど通ったので、もう腕や脚はだいぶきれいになった。半年あけてもそんなに目立たない。
不思議なもので、というか当然なのかもしれないけど、毛がなくなると肌がつるつるになる。
黙々とサロンに通っていたら、いつの間にか自分の肌の触り心地が良くなっていたのでうれしい。

下着の上から、子供の頃にプールで使ったボタン付きタオルみたいなのを着て、ピンクの紙パンツをはいて施術ベッドに横たわる。
裸になるわけではないけど、きれいな女性スタッフに体のパーツをまじまじ見られるのは、ちょっとした緊張感がある。


2年前、母に「遅ればせながら、脱毛に通うことにした!」と宣言したとき、「ふーん。自分にお金をかけるのはいいことじゃない?」と言われた。
「Tさんもね」と、母の学生時代からの友人でキャリアウーマンだったTさんが「歳とって寝たきりにでもなったら、誰も処理してくれないから!」と脱毛に通っていたという話をされた。
私は笑って「すごくわかる」と答えた。

毛の有り無しって、どこまでも自分だけの問題でいいと思う。
私は脱毛をしているけど、それは自分の肌がきれいだと気分がいいから。
他人から「ムダ毛を処理しろ」なんて言われたら、大きなお世話。
女性だけが毛を監視される社会の雰囲気は窮屈だ。 いいじゃん、本人がいいなら。ボーボーでも。


施術ベッドに横たわり、裏になったり表になったりして機械の光を当てられ、保湿ローションで仕上げてもらう。
終わって起き上がるとなんとも言えない虚脱感があるのだけれど(恥ずかしさで)、また一歩きれいに近づいた心地よい疲労感もある。

たまに自分の体に手をかけてもらうのは、いいことだと思う。


19時過ぎの予約から1時間半ほどしてサロンを出た。
帰り道は、向こうから走ってくる車や、街の灯りがやけにまぶしく見えた。
目が疲れているのかもしれない。
さっきサロンの鏡で顔を見たら、目が真っ赤だったのであわてて目薬を挿した。
昼間、ちょっと考え事に根を詰めすぎた。

家の近くの灰色の鉄塔を見上げたら、その向こうにぼやけた星がいくつか見えた。


2月がいってしまう。
あっという間に過ぎる。
私バカだなーって思うほど単純なことだけど、いくらでも幸せになりたい。 お願いはそれだけ。

きっとなるよ。


2018年02月27日(火) 18時22分