電子レンジと命のカウント

職場の電子レンジでお弁当を温めているとき、2分30秒からだんだんカウントダウンしていくのを見ていると、「ああ、いま弁当が温まるのと同時に、私の寿命に向かって2分30秒分をカウントダウンしているのだなぁ」と思ったりする。

そう思うとのんきに電子レンジの液晶を眺めているのももったいなく思うけれど、思うだけで何ってこともないので、おとなしくピーピー鳴るのを待って、温まった弁当を食べる。

本当にびっくりする事実だけれど、「今」は今しかない。
こうして文章をモソモソ書いている今も、私という生物の、生まれて死ぬまでの時間の中で二度とない一秒一秒だ。

って、やっぱり思うだけで何ってこともない。

できる限りおいしいものを食べ、好きな友達と遊び、いい男と付き合い、楽しい時間を過ごすしかないんだよなぁ、と思う。

2017年09月20日(水) 13時26分

踏んで殺せるか

家で、小さなレモンの木の鉢植えを育てている。

「レモンはイモムシがつくよ」と聞いていたけれど、本当にその通りだった。
彼らの食欲はすごい。ある日、急に葉っぱに虫食いが増えたな?と思ったら、鳥の糞に似た黒い小さなイモ虫がうねうねしていて、数日のうちに葉が食べつくされて丸坊主にされてしまう。
去年のゴールデンウィークに2、3日実家に帰っていたら見事に食い荒らされてしまって、丸坊主のレモンを回復させるのにだいぶ時間がかかった。

どうやらイモムシたちはアゲハ蝶の幼虫らしい。他にもいろんな植物があるのに、レモンだけを選んで卵を産んでいく。いったいどうやって見分けているんだろう。

今朝、起き抜けに外を眺めたらまたレモンの木に虫食いが増えていたので、あわてて確認したら、大きな緑のイモムシが枝の先に鎮座していた。
だいたい、まだ鳥の糞に擬態している生まれて間もなくのうちに捕まえて植え込みにぶん投げてしまうのだけれど、ここ数日植物をチェックしないでいたら、ここまで大きくなってしまったのか。
「立派に育ったな……」と思わず感心したけど、こんなでかいヤツ1匹いるだけで私の小さな庭は十分ヤバい。
そういえば月曜日に料理に使ったときはいっぱい生えていたシソの葉が、今朝はほとんどなくなっているけれど、それもコイツのような気がする。レモン以外にシソも食べるの?

今すぐどうにかしなくてはいけないけれど、ここで重要な前提として、私は虫が苦手だ。
こんなでかくて柔らかそうなもの、掴むことはできない。

棒でつついてみたものの、イモムシは若い枝の先にしがみついて動いてくれない。
枝を切りたくはないのだけれど、仕方がないので切った。
立派すぎるイモムシを手にして若干パニックに陥った私は、そのまま敷地の外の道路に向かって枝を投げた。
鳥の糞に似たまだ小さな兄弟(?)たちも手袋をして一匹ずつ取ってぶん投げ、ご退場いただいた。
それから「もう来ないでね……」と祈りながら、あまり刺激の強くない薬を撒いた。

そのあと、あわただしく化粧をして朝の準備を整え、そろそろ出勤しようと思ったとき、なんだかさっき投げた大きなイモムシが気になった。
ウッドデッキに出て、枝を投げた道路を見ると、枝そのものは落ちているけれどあのイモムシはいなくなっている。
「移動したんだろうか?」と思ったら、数メートル先に鮮やかな緑色が見えた。

なんだか嫌な感じがして、出勤前にアパートの裏手の道路に回って、その緑色を見た。
イモムシは変に曲がって動かなくなっていた。
傷のように濃い緑になった部分があって、きっと死んでしまったんだと思った。
私のせいだ。

なんてことをしたんだろう、と思った。
投げないで、その枝を持って外に出てアパートの植え込みにそっと置いてあげたら、もしかしたらそこでサナギになったかもしれないのに。
殺すことなんてなかったのに。

一瞬だ。
たった一つの判断だ。
蝶になって「きれい」と言われるはずだった命を、ほんの一瞬の間違った判断で私が殺した。
いや、きれいになろうが、そうじゃなかろうが、あの枝を投げたときに私は、虫の命をここで止めるという責任を負う気がなかった。
だから、今こんなにつらい気持ちになっている。
「そんなつもりじゃなかったこと」の罪深さといったらない。


会社に向かう道をうなだれて歩いていたら、ふいに真吾さんのことを思い出した。

私の尊敬する大好きな園芸家の柳生真吾さんは、かつて著書に「かわいそうだけれど、虫を見つけたらその場で踏んで殺す」と書いていた。
これは真吾さんの園芸の師匠からの教えなのだという。
真吾さんは昆虫が大好きな人だったけれど、植物を育てるために“虫の命を自分の手で止める”という責任を、そのときそのとき負っていたんだと思う。

本を読んだのはずいぶん前だけれど、私は、まだ虫を踏んで殺したことがない。
どうしても、できない。

レモンの木に虫をよける網をかけようか、と思う。
アゲハ蝶のお母さんが、ここで卵を産むのを諦めてくれるように。
そんなことぐらいしか、私はできない。

真吾さんが生きていたら、なんて言うだろう?

2017年09月13日(水) 22時13分

なにも最低ではない

会いたい人がたくさんいる。

彼氏のことは当然、毎日何回か思い出す。
でも昔好きだった人のことも結構思い出す。ないしょだけど。
一緒に働いていた人のこと、最近会ってない友達のこと、会いづらくなっちゃった人のこと、次の休みに会う友達のこと。

いつも誰かに会いたい。


朝、おなかの大きい奥さんと旦那さんが駅に向かって歩いている。
奥さんがあまりにボサボサでめちゃくちゃな格好をしている。
ああでも、愛されるために身だしなみなんかどうだっていいんだ。
綺麗でいる必要なんかないんだ。
ただしっくり組み合う組み合わせがあるだけ。
釘や接着剤なんてなくても、しっくり組み合うのが。

探さないといけないだけ。
見つからないかもしれないだけ。


目の前にあるのはただそうであることだけで、なにも最低ではない。
最低にしているのは私で。
あれもこれも、そうあることだけ。
でも会いたい人がいて寂しいのが嫌いな私がいるのも、たぶん、そうあること。


香水の匂いがする。
あの人の匂いのような気もするし、私がかつてつけていた匂いのような気もする。


おいしい水を買って飲む。
残りをバッグにしまう。
毎朝同じ景色が、電車の窓の右から左に過ぎていく。


何をどうするか考えてる。
何をどうしたら楽しくなるのか考えてる。

2017年09月11日(月) 22時12分

言い回しの沼

この夏から広告の仕事に戻って、数年ぶりに文章をこねくり回すという大好きな作業をしている。

私が書くこともあるけれど、他のライターさんが書いたものをチェックすることが多い。
そうすると、自分で書いているだけでは気付かないことに気付く。
どこかで読んだような言い回しが、隙間を埋めるように出てくること。
やたら文末が「!」なことや、「盛りだくさん」で「勢ぞろい」なこと。
一旦「ま、仕方ないか……」と思うのだけれど、「いやいやいや、ダメでしょ!!」と踵を返して、もっと適切な言葉を探す。


広告の最低限のルールは、その内容が「本当のこと」であることだと思う。
しかし、けっこう難しいのが実際で、クライアントに「では、この商品の広告を作るので情報をください」と言っても「○○○円です」「色は赤です」ぐらいの返事しか返ってこないことがある。
いくら正しくても、商品名と価格と写真(最悪、写真がなかったこともある)だけで、お客さんに「これ買いたい!」と思わせる文章を書くのは、かなり難しい。
というか、それだけじゃ何文字も書けない。

そういう時にやりがちなのが、「なにも言っていない言い回し」だ。

たとえば、クッキーとかマドレーヌとかの焼き菓子があるとする。
これを売らないといけない。
しかし実物を見たことがない。
味もわからない。
でも書かなくてはならない。

どうする?

「厳選した素材を使用して、職人がひとつひとつ丁寧に焼き上げました。」だ。

そして「風味豊か」で「優しい甘さ」だ。

これは、この世に存在する、ほぼすべての焼き菓子に当てはまる言い回しだ。
「(長年ズブズブの仕入れ業者から、いちばん安いのをさらに叩いて激安で仕入れた粉や卵を)厳選しました!」と言えば言えてしまうし、機械化された無人の工場でもない限り、そりゃ人がひとつひとつ丁寧に焼くだろう。雑にやったらヤケドするし。

こういう“なにか言っている風だけど何も言っていないコピー”は、世の中にたくさんある。
なんとなく立派に見えるし、馴染みのある言葉を組み合わせているので読みやすいから。
その代わり、何の特徴も説明していない。
これだけ言葉を使っても、他の焼き菓子との違いがわからないので、焼き菓子に「焼き菓子です」と書いたのと同じぐらいの情報しかない。

私だってハタチそこそこの頃は、困った末にこんなのを書いて「よし、なんとか逃げ切れたぞ!」と思ったことがある。恥ずかしい。
でも、今は恥ずかしいと思っているからマシなのだと思う。
最悪なのは、無自覚なライターが平気でこういう言い回しを量産することだ。
何も言っていない言葉なら、その分、商品の写真を大きくしてもらった方がまだいい。

あ……。
なんか、書いてて自分のこと小姑みたいに思えてきた。
こういうのをねちねち言っているのは、かつて自分で書いて恥ずかしい思いをしたことがある私みたいなライターと、ちょっと偏屈なお客さんだけで、大体の人は「ふーん」と読み流すだろう。
でも、読み流されちゃうのがダメなんだと思う。
商品そのものはすごくいい物かもしれないのに、誰にも気付いてもらえないかもしれない。
そうなると、商品自体も、作った人も、売りたい人も、それを探しているかもしれないお客さんも不幸になる。

だから、しつこく情報を依頼したり調べたりして、ウンウン唸って考えるのだ。


迷ったら白い紙を用意する。
商品はどういうものなのか。
どんないいところがあるのか。
どんなときに便利なのか。
ただ素直に書き出して、言い回しに頼らず言える「本当のこと」を探す。

この作業に既視感を覚えてよくよく考えてみたら、詩を書く時と似ている。
言いたいことを削り出す作業だ。
っていうか、詩集を出したことで、仕事でも言葉を削る作業によりシビアになってしまったんじゃないのか。

「広告は、創作のような自己表現ではない」というのは基本だけれど、本当のことを伝えたいという気持ちが極まって、逆に創作みたいになってきてしまったのでは。

こんなのブログに書いて、私、すでにだいぶ気持ち悪いのでは……。


ホント、言い回しは沼。

2017年09月11日(月) 22時10分

西友とさよなら

明日、近所の西友が閉店してしまう。

ビルごと建て直して3年後にリニューアルオープンするらしい。
3年後って。もう少し早くしてもらえないだろうか。


私、西友が好きだ。
24時間営業だし。
プライベートブランドのポテトチップスやカップラーメンがうまいし。
牛乳のデザインもかわいい。
あとかかってる音楽が良くて、なんとなく落ち着く。

だから、西友が閉店するとか嫌すぎて、現実と向き合わないまま今日まで来たけど、やっぱりするんでしょうね、閉店。

すごく嫌だけど。


利用するようになったのは、一人暮らしを始めてから。
飲み会やデートの後、まもなく今日が昨日になるという時間、卵や牛乳を買うためによく立ち寄った。
店内にはいつでも結構お客さんがいて、なんだかそれだけでホッとして、帰り道の心細さが和らいだ。


2年前、一人暮らしを始めたばかりの頃は、西友に行くたび調味料を買った。

醤油や塩や油は引っ越しの時に母が持たせてくれたけど、みりんや酒、マヨネーズにケチャップ、中華だし、ごま油、とろみをつける片栗粉、にんにくや生姜、豆板醤や甜麺醤、メイプルシロップなどなど……実家には当たり前にあったものがない。
料理をするたび買いに行くので「自炊って、なんてお金がかかるんだ」とおののいた。
いい歳して、そんなことを実感するのも初めてだった。

家計簿アプリに、買ったものと値段をポチポチと打ち込みながら、「私、やりくりしていけるかな……」と不安だった。

そのうち自分のキッチンに調味料が揃って、大体のものが食材だけ買えば作れるようになり、そうなると生活の不安はだいぶ薄れた。

その頃には、一人の部屋にも慣れていた。


「せっかく一人暮らしなんだから、料理しなきゃ」「料理といえば和食だろ」と思って、何故かいきなりぶりのアラと大根を買って、ぶり大根を作ったこともあった。
美味しくできたけど、慣れていないから5人前ぐらい出来上がってしまい、生臭いキッキンにうんざりしながら1週間食べ続けたりもした。

最近は、一人前の分量にはだいぶ慣れた。
でも、ぶり大根を作るような真人間ではなくなってしまい、生野菜に塩をつけて食べたり、ぐうたらしている。


明日、西友とさよなら。
私の初めての自炊の思い出とも、ひとまずさよなら。


また3年後。

……って、さすがに3年後は私ここで一人暮らししていたくないけど、どうだろうねぇ???


2017年08月29日(火) 23時33分