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金木犀の一週間

金木犀、咲きはじめた。

金木犀の学名は「Osmanthus fragrans var. aurantiacus」。

Osmanthusはモクセイ属を表している。
fragransは香りがあること。
aurantiacus は橙黄色という意味。

モクセイ属「Osmanthus」(オスマンサス)は、ギリシャ語の 「osme」(香り)と「anthos」(花)が語源なんだという。


植物の学名が好きだ。
図鑑を開いて、学名のところだけ眺めたりしている。

こんなことを言うと専門家には怒られてしまいそうだけれど、ラテン語の響きも、意味をいっぱいに含んでいることも、素っ気ないようで詩的だから。

生物学では「学名はラテン語のみ」と決まっているらしい。
「なんでラテン語なの?」という問いは、調べ始めると沼らしいので正確な答えは知らない。
現在ラテン語を口語で話す人はいないそうで、日本語や英語など日々使われている言語のように変化することがないので、学術的な“記号”として都合がいいのかもしれない。



あんなに香るのに、金木犀の花期は短くて、ほとんど一週間ほどで咲き終わる。

花も季節も人の心も、記憶だけ残してほんの数日で消えてしまうようで。

消えないで。


考えれば考えるほど、本当の自分は、
ただ好きな人を好きな自分。

消えないで。

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2017年10月07日(土) 11時10分

理由もなしに好き

イチジクの木が好きだ。

なんで好きなのかよくわからないけど、とても好き。

葉っぱの形や色が、とくに好みだ。
手のひらみたいにぶわっと大きくて、くっきり葉脈が入っていて。
明るい黄緑色なのもきれい。

それと、低く広がる枝。
アンバランスなようできちんとバランスが取れていて、おしゃれな観葉植物みたい。

そして、筆で塗って色をつけたような赤紫の実。
子どもの頃は毒々しくてあまり手が伸びなかった。おいしいとわかった今も、買って食べるのは躊躇するけど、ケーキ屋さんでつやつやのタルトになってるのを見かけると、うれしくなって「それと、これください」と言う。


と、イチジクの木の好きなところを書き出してみたけど、じゃあなんでそれが好きなのか、結局よくわからない。


ぱっと見てすぐ理由もなしに「好き」と思えるものが、ごくごくたまにある。
それは自分の感覚の中でも、かなり信頼している。

理由もなしに「好き」と思った服や靴やバッグは、だいたいその後何年も使うし、持っていると「それいいね」と褒められたりもする。

たぶん、理由のない「好き」は、自分に合うもののサインなのだと思う。


弱気な日には、小さな部屋にひとりこもったまま、静かにいろんな「好き」を考える。
好きな美術、好きな花、好きな服、好きな場所、好きな本、好きな音楽、好きな人。

好きなものが散らばってまたたく世界が急に愛しく思えて、なんだか泣きたくなる。


イチジクの木、いつか家に植えていっしょに暮らせたら幸せだろうな。


2017年10月07日(土) 09時39分

緑のバンダナのお弁当

壁にもたれて長考に入っている。

しかし考えることも傲慢に思える。

できることを丁寧にやろうと思った。

そのために何か滋養のあるものを食べよう、と思って、冷凍庫にある作り置きのおかずをお弁当箱に詰めて、古着屋さんで買った鮮やかな緑色のバンダナでぎゅっと包んで仕事に来た。

昼、電子レンジで温めたお弁当箱を開けたら、お母さんが作ったお弁当の匂いがした。

幼稚園の頃の記憶か、高校の頃の記憶。

もう2年ちょっと自分でお弁当を作っているのに、そんなこと思ったのははじめてだ。

すぐに中身を確認したけど、なんだろ。
なにがお母さんが作ったお弁当の匂いの元なのか、よくわからなかった。

ウインナーかな。


なに言ってんだろ。

できることを丁寧に。
できることをちゃんと。


2017年10月05日(木) 14時44分

電子レンジと命のカウント

職場の電子レンジでお弁当を温めているとき、2分30秒からだんだんカウントダウンしていくのを見ていると、「ああ、いま弁当が温まるのと同時に、私の寿命に向かって2分30秒分をカウントダウンしているのだなぁ」と思ったりする。

そう思うとのんきに電子レンジの液晶を眺めているのももったいなく思うけれど、思うだけで何ってこともないので、おとなしくピーピー鳴るのを待って、温まった弁当を食べる。

本当にびっくりする事実だけれど、「今」は今しかない。
こうして文章をモソモソ書いている今も、私という生物の、生まれて死ぬまでの時間の中で二度とない一秒一秒だ。

って、やっぱり思うだけで何ってこともない。

できる限りおいしいものを食べ、好きな友達と遊び、いい男と付き合い、楽しい時間を過ごすしかないんだよなぁ、と思う。

2017年09月20日(水) 13時26分

踏んで殺せるか

家で、小さなレモンの木の鉢植えを育てている。

「レモンはイモムシがつくよ」と聞いていたけれど、本当にその通りだった。
彼らの食欲はすごい。ある日、急に葉っぱに虫食いが増えたな?と思ったら、鳥の糞に似た黒い小さなイモ虫がうねうねしていて、数日のうちに葉が食べつくされて丸坊主にされてしまう。
去年のゴールデンウィークに2、3日実家に帰っていたら見事に食い荒らされてしまって、丸坊主のレモンを回復させるのにだいぶ時間がかかった。

どうやらイモムシたちはアゲハ蝶の幼虫らしい。他にもいろんな植物があるのに、レモンだけを選んで卵を産んでいく。いったいどうやって見分けているんだろう。

今朝、起き抜けに外を眺めたらまたレモンの木に虫食いが増えていたので、あわてて確認したら、大きな緑のイモムシが枝の先に鎮座していた。
だいたい、まだ鳥の糞に擬態している生まれて間もなくのうちに捕まえて植え込みにぶん投げてしまうのだけれど、ここ数日植物をチェックしないでいたら、ここまで大きくなってしまったのか。
「立派に育ったな……」と思わず感心したけど、こんなでかいヤツ1匹いるだけで私の小さな庭は十分ヤバい。
そういえば月曜日に料理に使ったときはいっぱい生えていたシソの葉が、今朝はほとんどなくなっているけれど、それもコイツのような気がする。レモン以外にシソも食べるの?

今すぐどうにかしなくてはいけないけれど、ここで重要な前提として、私は虫が苦手だ。
こんなでかくて柔らかそうなもの、掴むことはできない。

棒でつついてみたものの、イモムシは若い枝の先にしがみついて動いてくれない。
枝を切りたくはないのだけれど、仕方がないので切った。
立派すぎるイモムシを手にして若干パニックに陥った私は、そのまま敷地の外の道路に向かって枝を投げた。
鳥の糞に似たまだ小さな兄弟(?)たちも手袋をして一匹ずつ取ってぶん投げ、ご退場いただいた。
それから「もう来ないでね……」と祈りながら、あまり刺激の強くない薬を撒いた。

そのあと、あわただしく化粧をして朝の準備を整え、そろそろ出勤しようと思ったとき、なんだかさっき投げた大きなイモムシが気になった。
ウッドデッキに出て、枝を投げた道路を見ると、枝そのものは落ちているけれどあのイモムシはいなくなっている。
「移動したんだろうか?」と思ったら、数メートル先に鮮やかな緑色が見えた。

なんだか嫌な感じがして、出勤前にアパートの裏手の道路に回って、その緑色を見た。
イモムシは変に曲がって動かなくなっていた。
傷のように濃い緑になった部分があって、きっと死んでしまったんだと思った。
私のせいだ。

なんてことをしたんだろう、と思った。
投げないで、その枝を持って外に出てアパートの植え込みにそっと置いてあげたら、もしかしたらそこでサナギになったかもしれないのに。
殺すことなんてなかったのに。

一瞬だ。
たった一つの判断だ。
蝶になって「きれい」と言われるはずだった命を、ほんの一瞬の間違った判断で私が殺した。
いや、きれいになろうが、そうじゃなかろうが、あの枝を投げたときに私は、虫の命をここで止めるという責任を負う気がなかった。
だから、今こんなにつらい気持ちになっている。
「そんなつもりじゃなかったこと」の罪深さといったらない。


会社に向かう道をうなだれて歩いていたら、ふいに真吾さんのことを思い出した。

私の尊敬する大好きな園芸家の柳生真吾さんは、かつて著書に「かわいそうだけれど、虫を見つけたらその場で踏んで殺す」と書いていた。
これは真吾さんの園芸の師匠からの教えなのだという。
真吾さんは昆虫が大好きな人だったけれど、植物を育てるために“虫の命を自分の手で止める”という責任を、そのときそのとき負っていたんだと思う。

本を読んだのはずいぶん前だけれど、私は、まだ虫を踏んで殺したことがない。
どうしても、できない。

レモンの木に虫をよける網をかけようか、と思う。
アゲハ蝶のお母さんが、ここで卵を産むのを諦めてくれるように。
そんなことぐらいしか、私はできない。

真吾さんが生きていたら、なんて言うだろう?

2017年09月13日(水) 22時13分

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