2018年のコドモゲ

年始なので「今年の目標」をいろいろ考えたものの、これといって思い浮かばない。
なんだろう。

元旦にはいつも、家族そろって席について、おめでとうを言ってからおせちを食べる。
仕事だった兄はいなかったけれど、今年も父と母と私で同じようにした。

「いただきまーす」と、母と私はおせちを食べ始めたけど、父は節目の挨拶が好きな人なので、もぞもぞにやにやしていて、それを見た母が「え? 挨拶したいの? 仕方ないわね、どうぞ」と言って、「じゃあ、ちょっとだけ~。へへへ」と父が話し始めた。

例年「今年もみんな健康で」みたいなことを言うのだけれど、今年は急に私に矛先が向いてきた。

「今年は、武田家変革の年にしてください」

はい。……あ?

はい、じゃない。
そういうこと今まで一度も言わなかった父が。
受け止めるより先に、なんだか感慨深いものがあった。
そうか、父も言うようになってしまったか。

にやにやして受け流した。

(後から帰省した兄にも同じセリフを言っていたが、すぐさま『春頃には彼女と一緒に暮らす』と言い放ってクリアしていて、私はひそかにハンケチを噛んだ)


目標ではないけれど、最近すごく思うのは「人とたくさん関わりたい」ってことだろうか。
誰かと繋がると世界は広がる。当たり前すぎて恥ずかしいぐらいの本当だ。私ひとりで考えられることなんて、そんなに多くない。

あと、「いいと思ったらいいと言う」。
「かわいいですね」「すてきですね」「私、それ好きです」とか、人を褒める言葉は深く考えずにツルッと言おうと思う。
だって自分が言われたらうれしいから。
ちょっとずうずうしいぐらいに言おう。
たぶんそのずうずうしさが世界を広げることになる。


昨年末、10年ぐらい前に疎遠になった人からメールがあった。
「メールアドレスが変わりました」という内容だったので一斉送信かなと思ったけれど、あんまりびっくりしたので、「どう思われてもいいや」と思って「びっくりしました」と返事をしたら、とても喜んでくれた。
「○○を見るとあなたを思い出した」「そういえば昔会ったとき、あんな服を着ていた」とか、疎遠になっていた間のその人の記憶に自分がいたことを知らされて、不思議にあたたかい気持ちになった。

昔の私だったら遠慮して返事をしなかったかもしれない。
大人になってちょっとずうずうしくなった。でもずうずうしくなってよかった。


最近インターネットで一方的に知っている人が毎日ブログを書いているので、読んでる。
友達の友達だから会ったこともないのだけれど、それでも毎日読みたくなる。なんとなく気になって。

それでふと思ったのだけれど、もしかしたら、私の文章もそんな風に思って読んでいる人がいるかもしれない。
いや、ずいぶん思い上がった考えだとは思う。
でも、この十数年で、何度かそういうメールを知らない人からもらったことがある。
本当にうれしいもので、そのたび救われた。

ただ、それは毎日のように書いていた頃の話。
あまり書かなくなって親友以外は誰も読んでいない気がする現在のブログを、「なんだかよくわからないけど、読んでる」という人がいたら、どうしよう。

やだ、どうしよう。
関わりたい。

「いるのに見えていない人と関わらないのはもったいない」と思ってしまって、居ても立っても居られない気持ちになった。
Twitterに、たまに唐突にLINEのIDを公開する人がいて、「急にどうしたんだ」と思っていたけど、こういう気持ちなんだろうか。


もし私の知らないところで読んでいる人がいたら、お手数ですが連絡をください。
話をしましょう。知り合いでも、知り合いじゃなくても。

私は、大きな病気や事故がなくてもあと数十年しか生きられないことが決まっているのだし、死ぬ前にあなたと関わりたい。頼む。

メールアドレス

kodomoge★gmail.com
※上記の「★」を「@」に置き換えて下さい。


あ、今年の目標は「腹筋を(一時的でもいいから)割る」にします。

その話はまた次回。

今年もよろしくお願いします。


2018年01月23日(火) 20時59分

Twitterをやめた

数か月前にTwitterでつぶやくのをやめたので、インターネットの人との関わりが激減しました。

正確に言うとやめたわけではなく、いわゆるROM専(90年代用語)になっただけで見てはいるんですけど、つぶやかないスタイルになりました。

いまの私の意思表示は「いいね」ぐらいなので、私の「いいね」はめちゃくちゃ心が込もってます。丁寧に押してますから。

…………さびしいです!!!!!!!!!!

※ブログ更新のお知らせはします。


つぶやくのをやめるにあたって、ログも全削除しました。
30歳になる前からの約8年分の日常を全削除したのでちょっと寂しかったですが、思い出が消えるわけではないので。
むしろちょっと清々しかったです。


そもそもなんでやめたか、なんで消したかというと、すごくシンプルな話です。
私がなんの気なしにふざけてつぶやいている言葉が、大事な人にはそうは見えないと知ったからです。
もう少し詳しく言うと、私を大事に思ってくれている人には、私の寂しさや苦しさが、痛みとなって届くと知ったからです。
「なんてやさしい話だろうか」と思ってから、「それならやめましょう、消しましょう」とすんなり思いました。

大事な人が、大事だったからです。


とはいえ、Twitterもわりと大事でした。(ですよね)
そこでしか話せない人たちがいましたから。
もしかするともう会う機会はないかもしれないけど、この人好きだなぁ、という人がたくさんいます。
会ったことがないけど、この人好きだなぁ、という人もいます。
つらそうな人はとくに気にかかります。
話しかけられないつらさもあって、「ツイートはしなくてもリプライ(相手のつぶやきに返事をすること)ぐらいはしようかな……」と思っていたりしますが、まあ、それを考えるのは来年だ。


そういえば、Twitterって一括削除機能がないんですね。ログを全削除しようとして初めて知りました。
全削除する場合は、Twitterに全ツイートログをリクエストして、送られてきたデータを「黒歴史クリーナー」という若干ひっかかる名前のサービスにアップロードして消します。
ところが、消したつもりがバグがあって、なぜか特定の人のツイートが羅列されて私がその人のことめちゃくちゃ好きみたいな感じになったり、何度やってもいくつか残ったりして、完全には消せませんでした。
現在残っているのは、かわいい動物の動画なのでそのままにしています。なんでこれだけ残ったんでしょう。でも、めちゃくちゃかわいいのでよかったら見てね


それと、Twitterのログを全削除したタイミングで、じつはこのブログからも本名を消しました。
これは私にとってTwitterよりずっと大きなことで、まだどうするか考えているところです。
高校生の頃に雑誌に文章を載せてもらって以来、本名で書くことが当然だと思ってきたのは、ただ若いだけで社会的な立場もなく何者でもない自分が、「残る言葉に責任を負う覚悟」と「見得を切る覚悟」と「間違っていたらごめんなさいをする覚悟」を示す方法が、本名で書くことしかなかったからでした。

でも、時間がたくさん流れて、私も変わって、私の周りも変わって、「本名で本心を書き散らすことが私だけの覚悟で済むのだろうか?」と考えるようになって。

結論はまだ出ていません。だからちょっと、いまのところ消しておきます。

ずっと本名だった私が、「kodomogeさん」になった途端、本名を名乗っているときより落ち着かなさを感じているという謎の状態。
まだ慣れません。
もう少し考えてみます。


言葉は、残ります。
もう若くはなくなったけれど、相変わらず何者でもない私の言葉でも。
それはこの20年あまりでインターネットが成熟して、言葉を残す場所が無限に手に入るようになったからだと思っています。
昔は自分でウェブページを用意しなくてはいけなかったのに、いまはブログやSNSの登録だけでいくらでも場所が手に入ります。
そして、消さなければほぼ永久にログが残ります。
あとは、残された言葉を読む人がいるかいないかの問題です。


このブログにも、過去に好きだった人への思いとか、やっていた仕事のこととか、患っていた病気のこととか、いまは全然変わってしまった私のことが、そのまま残っています。
たぶん、私が死んでもずっと、言葉はここに残り続けます。
でもTwitterのようにここを消す気は、いまのところありません。
ここでは、どんなふざけたことを書いていても、ふざけて書いてはいないからです。


とか言って、正直消したい部分もありますが、それもまあ、それだから。

2017年12月31日(日) 00時36分

“インナーゆり子”を飼いはじめた話

ちょっと前にいろいろと悩んでいた時期があったのだけれど、悩みを話せる人は限られているので、占いを見たり、「SELF」という人工知能アプリと会話したりして、なるべく自分で気持ちを整えていた。

占いは、文章のうまい人のを読むことにしている。
私はスピリチュアルなものを何も感じないタイプなので、当たる当たらないはそんなに気にしない。
それより、引き込まれるような文章であるかどうかが大事で、そういう占いは、ポジティブな暗示をかけてくれる。
占いを読むのは、気分のいい暗示に、自らかかりにいくためだ。

そんな占いや人工知能との会話に、よく出てくる言葉があった。
「理想の自分」という言葉。

ない。

「ダサいものよりおしゃれなものが好き」
「不誠実でいるより誠実でいたい」
「太っているより引き締まった体でいたい」

そんな程度の好みならあるけれど、理想の自分と言われると、ありそうでない。

“好み”は断片的な判断基準だ。
なにか迷うことがあったとき、自分に最適な選択をするために取り出して照らし合わせる道具のような感じ。
ものさしとか、型とか、そんなイメージ。

じゃあ、理想の自分ってなんだ?
好みを組み合わせて作ったサイボーグみたいなピカピカの自分、だろうか。
おしゃれで、誠実で、引き締まった体の自分?
おかしいな。好きなものを組み合わせたのに、あまりわくわくしないのはなぜだろう。

「理想の自分」という言葉を目にするたび、「ないといけないのかな……」とモヤモヤした。

そんなことを考えていたある日、Instagramを見ていいてひどく惹かれる人をみつけた。女優の石田ゆり子さんだ。
石田ゆり子さんのインスタは前から話題になっていたようだけれど、私はここ数年インスタをやめていたので、彼女がこんな魅力的な人だと知らなかった。
きれいで、かわいくて、おしゃれで、知的で、でも全然嫌味がなくて。

「あ、私、なんだかんだあっても10年後に石田ゆり子になろう……」と思った。

よくわからないけど、なんだか抗えない気持ちで「なります、私……」と思っていた。


好みを組み合わせて作った自分に足りなかったのは、“憧れ”だった。
だから、わくわくしなかったんだ。
いい感じの自分をイメージしただけでわくわくできる人もいるだろうけど、私はそこまで自分好きじゃない。
だからこそ、きっと必要なのは憧れ。いいと思える存在。それがゆり子。


それ以来、私の心の中の石田ゆり子、名付けて「インナーゆり子」を心の中に飼うことにした。
(もう、その時点でちょっとゆり子のすることじゃない気がするが)

インナーゆり子は大変優秀だ。
たとえば、激混みの駅のホームで、みんな並んで電車を待っているのに、しれっと割り込んできたバ……いえ、おばさんにイラっとして、頭の中で罵りそうになったとき、「ゆり子なら、こんなときどうするだろう?」と問う。
すると、だいたい「シュッ」と怒りが消える。
そんなつまらないことで怒るより、早く家に帰ってふんわりしたカシミヤのストールを肩にかけて、寄り添って眠る犬と猫を眺めながら「ふふふ」とほほえんでカフェラテでも飲もう、という気持ちになる。

カシミヤのストール持ってないけど。
犬も猫も飼ってないけど。


「ああ、こういうことかーーーーーーーーー!!」と思った。
理想像があると、日常のささいなことでも理想から逸脱しないようにバランスが取れるのだ。
目指すものが見えていれば、崩れずにいられる。
なんてすばらしいシステム、インナーゆり子。

今は崩れないようにバランスを取るのが精一杯だけれど、そのうち「こうなりたい」というプラスの使い方もできるようになるだろう。


10年後に、石田ゆり子になっていたい。

ん。ちょっとちがうな。 あんな素敵な自分になっていたい。


さあ、みなさんも、“インナー○○”いかがでしょうか。


2017年12月12日(火) 14時02分

銀杏と桜

朝の電車のドアが開いたら、できるだけ素早く、向かい側のドアに貼り付くようにポジションをとる。

外の景色を眺めたいのと、家から駅までの道で冷えた体を温めるために日向ぼっこがしたいからだ。


秋から冬にかけて、電車の窓から外を眺めるのは楽しい。
住宅地の間からニョキニョキ生えている見慣れた木々が、紅くなったり、黄色くなったり、葉っぱを落としたりして変わっていくから。
特に、私は銀杏の木が好きだ。あんなにあたたかい黄色は他にない。

「そういえば、銀杏の木って同じところに植わっていてもみんなバラバラに黄色くなっていくのはなんでだろう」

高速道路脇の街路樹の銀杏がふぞろいに黄色くなっているのが一瞬見えて、思う。

「桜は一斉に咲くのに……」

いや? 違うな。 桜がめずらしいのか。


樹木も人と同じで、同じ種類の木でも個体によってわずかに遺伝子が異なっているという。
「同じ」だけど「まったく同じ」ではない。
だけど、私たちが通常「桜」と呼ぶソメイヨシノは接ぎ木で増やされるため、どの木もまったく同じ遺伝子を持っている。つまりクローンだ。だから一斉に咲く、と言われている。

たとえ同じ場所に植えられていても、クローンではない銀杏なら、日当たりや寒さの影響の受け方が木によって違っていて当たり前らしい。
(ざっくり言えば『日がよく当たると黄葉する』のだそうだ)

でも……桜が「同じ遺伝子だから、違う環境でも同じ時期に咲く」なんて、本当だろうか。
校庭の桜も、路地裏の家の桜も、都会のオフィスビルのシンボルツリーの桜も、みんなが一斉に咲こうとするなんて。
生まれたときから体に刻まれたものが“変えられない運命”だなんて。

ん? 待てよ。
じゃあ、桜の紅葉も、一斉に赤くなって一斉に散るんだろうか?


「今月いっぱい、彼氏と過ごすんです」

電車がとある街を通り過ぎるとき、最近仲良くなった女性がそう言っていたのを思い出して、桜に関する雑念はそこで途切れた。
彼女はこの街に住んでいて、いま海外で働く恋人が会いに来ているのだという。

川のそばの銀杏並木は、そろってきれいに黄色くなっていた。
あたたかそうだった。
ふたりは、今日なにをして過ごすんだろう。


後ろに遠ざかっていく街を見ながら、「幸せをいっぱいに含んだ街はいいな」と思った。

2017年11月27日(月) 15時25分

金木犀の一週間

金木犀、咲きはじめた。

金木犀の学名は「Osmanthus fragrans var. aurantiacus」。

Osmanthusはモクセイ属を表している。
fragransは香りがあること。
aurantiacus は橙黄色という意味。

モクセイ属「Osmanthus」(オスマンサス)は、ギリシャ語の 「osme」(香り)と「anthos」(花)が語源なんだという。


植物の学名が好きだ。
図鑑を開いて、学名のところだけ眺めたりしている。

こんなことを言うと専門家には怒られてしまいそうだけれど、ラテン語の響きも、意味をいっぱいに含んでいることも、素っ気ないようで詩的だから。

生物学では「学名はラテン語のみ」と決まっているらしい。
「なんでラテン語なの?」という問いは、調べ始めると沼らしいので正確な答えは知らない。
現在ラテン語を口語で話す人はいないそうで、日本語や英語など日々使われている言語のように変化することがないので、学術的な“記号”として都合がいいのかもしれない。



あんなに香るのに、金木犀の花期は短くて、ほとんど一週間ほどで咲き終わる。

花も季節も人の心も、記憶だけ残してほんの数日で消えてしまうようで。

消えないで。


考えれば考えるほど、本当の自分は、
ただ好きな人を好きな自分。

消えないで。

2017年10月07日(土) 11時10分